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ネバダ臭

クズが伸し上がる為の精神論をちょくちょく書いているクソブログ

蠢く狂気

いつもと変わらない朝、開店時間である10時に間に合わせるよう慌ただしく準備を進める。毎朝自転車で30分かけて店に通勤し、タイムカードを押した後、閉店時に店内へ押しやられた商品を店先に並べながら掃除を行う。家具や雑貨等を販売する店舗で働くモイスチャー(22歳)は、アルバイトながら店長を任されており、毎日忙しい日々を送っていた。

 
釣銭をレジに入れ、店内の掃除、前日に残した作業の確認をする為、連絡帳を一通りチェックし、まずは現品で捌けた家具の組み立てをしようと店の入口に目をやると、上品な服装をしたお婆さんが店内に入ってきた。
 
「いらっしゃいませ」
 
お婆さんは笑顔でこちらに向かって軽く会釈をし、入口付近の雑貨を手に取りながら、ゆっくりと店内を見て回る。大きなツバの帽子を被り、年相応でないワンピースを着ているのでほんの少しの違和感を感じながら、視界の隅にお婆さんを捉えつつ組み立て作業を始めた。開店から一時間ほど経過しただろうか。私の真後ろから声がした。
 
「すみません」
 
組み立てに集中していた私は少し驚いて振り返る。お婆さんは少し小ぶりなペンダントライトを手に、ニコニコと微笑んでいる。
 
「このライトの配達と、持ってきて下さった時に部屋に取り付けて下さるかしら」
 
全然構いませんよ。住所を聞くと、店から歩いて5分も掛からない近所のようだ。世間話をしながら伝票を作り、お代金を頂いてお昼過ぎに配達に伺う旨を伝え、途中になっている組み立て作業に取り掛かる。ふと手を止め、考えていたのはこんなに近所なのにあのお婆さんを一度も見たことが無いという事。まぁそんな事もあるよなと気にせず作業を再開した。
 
昼食を済ませ、配達の準備を始める。地図と住所を照らし合わせ、必要な道具を揃えた。歩いて行こう。目的地は入り組んだかなり細い路地ばかりの文化住宅のようだ。ここなら前に別の配達で行ったことがある。築50年は経っているであろう古い文化住宅だ。電話が無いとの事なので直接行ってチャイムを鳴らそう。
 
目的地に到着し、チャイムを鳴らす。応答がない。何度か鳴らしてドアに手をかけると鍵が空いている。ドアを開けると、入ってすぐに階段があるタイプの住居で階段には夥しい量の荷物(ゴミ?)が上までギッシリ置いてあり、見上げると電気も点いておらず薄暗い。
 
「こんにちは。ライトをお持ちしました。いらっしゃいますか?」
 
どうぞ〜とお婆さんの声がしたので階段を上がる事にした。ドアを開けてすぐ靴を脱ぐスペースがある。いくら荷物が山積みとはいえ、お客さんの家に土足で入るわけにはいかない。意を決して靴を脱ぎ、階段を上がる。ゴミを足で踏みつけながら部屋を見ると薄暗いというよりほぼ真っ暗に近い。カーテンも締め切られている。そして据えた匂いに混じる腐敗臭。普通に呼吸が出来ない。
 
「こんにちは」
 
ガサガサ動く音が聞こえる方に目をやると、暗さに目が慣れてきたのかお婆さんがうっすら見える。話し掛けても応答が無い。よく見ると部屋の上を指差して動かない。そうか。この電気が切れているんだな。早く替えて帰ろう。手が届かないので近くにある椅子を借りても良いかと訪ねると黙って頷いている。電気の傘と電線の接続部分に触れると何やらネチャネチャしたものが付着しているが、この際そんな事は気にしていられない。
 
平静を装っていたが、いざ電気を交換する時に自分の手が震えているのにこの時気付いた。そしてその時、誤って電気を下に落としてしまった。ゴミに埋もれたコタツに落下し、電球が粉々に飛び散る。しまった…。このゴミの山に散乱した電球の破片を集めるのは不可能に近い。お婆さんに謝罪をすると返事もないし動かない。暗いので表情が見えない。駄目だ。早く交換して帰ろう。目を凝らして大きな破片だけ回収し、やっとの思いで新しい電気を取り付け、カチッと点灯させた。
 
ゴミの山は部屋の高さの半分位まで積まれており、通路であろう部分が明かりで露呈した。よく見ると、何万匹いるんだろう、想像出来ないほどの小さなゴキブリが犇めき合うようにゴミとゴミの間を蠢いている。絶句というのを初めて経験した。声が出ない。お婆さんの方を見るとニコニコ笑ってこちらを見ている。電気が点いたのが嬉しいのか。そしてガサガサと音がするのでもう一度見渡すと部屋が二つあるようだ。
 
その部屋もゴミの山、そして人がもう一人いる。電気が点いたからこちらに移動しているんだろう。ゴミとゴミの間から見えたその顔は、顔全体が紫色に変色し、片目から白い膿を垂れ流しながらこちらを黙って見ている。もう私は全身の力が入らない。耳が痛いぐらいの静寂の中、小さな小さな虫が無数に蠢いている音だけが聞こえる。ここが狂っているのか、私が狂っているのか、境界線が曖昧にならないうちに全ての力を振り絞り声を出した。
 
「ありがとうございました」
 
足の裏で無数の虫を踏み潰しながら部屋を後にし、階段を降りた。靴を外に投げ、外に出て靴下を見ると小さな虫が付着している。裸足になって靴を履き、ドアを閉めようと階段の上を見上げると、二人の顔が黙って私の顔を見下ろしている。何も言わずにドアを閉めた。
 
普通と狂気の境界線など、人間には無いのではないかと思った。私もあの狂気に迷い込んでしまう事があるのかもしれない。当人は狂気である事に気付いていない。で、あれば私も既に狂人であるのかもしれない。そしてあの時からまた、あのお婆さんを見かけない。
 
※ 実話です。