ネバダ臭

クズが伸し上がる為の精神論をちょくちょく書いているクソブログ

どちらが正しいのかなんてただの主観でしかない

面白い記事があったので言及を。


当事者以外が口を出すことは正しいのだろうか? - ジンさんは今宵も独りである。

 

この記事の主張は、何かの論争があって当事者ではない第三者が口を出すのであれば、双方から話を聞いてからジャッジ・発信すべきだという。まぁ、その通りだと私も思う。都合の悪い事を言わない、もしくは解釈を変えて物言いするのは私も含めて皆そうだ。自分を守るための防御策である。これが正しいのか否かは別問題で「当事者同士」の剣と盾である。

問題はそこに割って入る第三者の追撃にある。どちらが正しいのかを外野から見て「第三者の主観」で判断し、意見を投げる。言及元の記事にあるように、情報が偏れば「本当は被害者なのに加害者になる」可能性は大いにあり得る話だ。そういう事例も沢山あると思う。当事者はたまったもんじゃない。第三者の無責任な発言やジャッジが増えれば増えるほど立場は悪くなるだろう。

 

ここまでは「当事者のことをよく知らない人の話であれば」が前提となる。

 

例えば高校一年生でクラスの人間の言動や行動を一年間見てきた「よくは知らないが大体分かる」人達の話であればどうか。高校二年生になり顔見知りの男女が喧嘩している。片や俺アイツと付き合ってヤッたんだぜwwwと吹聴しており、片や付き合ってないしヤッてもない!と言っている。さぁどちらを信じるのか。ここで重要なのは「高校一年生の時の二人の言動や行動」である。男が女のケツを追いかけ回して嘘ばかりついていたのか、真面目ではなくても一般的な人間性であったかどうか、はたまた女がビッチであったのかどうか。ここに第三者の「主観」が生まれる。

 

所謂その人に対する「信用」である。

 

人は今まで見てきたその人の言動や行動で判断してしまうのだ。だから普段からなるべくちゃんとしようと人は動くのだ。その「ちゃんと」の積み重ねが他人から見た自身のイメージや信用を作り出す。縦読み怪文書などを書くような人間を誰が信用するのか。トリッキー過ぎるのではないか。そこに第三者は「悪意」しか汲み取れない。信用されたいなら信用されるように普段から「ちゃんと」しなければいけない。しかしその「ちゃんと」も主観であることを忘れてはならない。何をお手本としどうなりたいのかは自分で決める。正解なんてないのだと思う。それでもちゃんと考えて自分の答えを持っておきたいと私はいつも思っている。

 

最後に

第三者は聖人君子なのかという問いについて。第三者は言いたいだけだ。「面白いから」以外に理由を見つけるのは難しい。そして私の事を聖人君子だと思っている読み手は一人もいないだろう。頭が光りすぎて後光と間違える人間はいそうだが光っているだけなら電球と同じ。そう、私は電球なのである。

 

(´;ω;`)ブワッ