ネバダ臭

クズが伸し上がる為の精神論をちょくちょく書いているクソブログ

諦めて全て忘れようと努力したことを覚えている

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私は20代の頃バンドをやっていた。プロを目指していたわけではない。ただ音楽を拠りどころにしていたのだ。そしてずっと前から気付いていたし知っていたのだ。私には「創る」ことが出来ない。私の悪い癖なんだが引いて見てしまう。それは今も変わらない。プロだろうがアマチュアだろうが関係ない、音楽家たるもの、ある種のナルシシズムを極めねばならない。自分の創る音楽が誰にも負けない良いものだと信じ、それがどんなものであろうと惜しげもなく発信していかねばならん。私にはそれが出来なかったしやろうともしなかった。そして諦めたのだ。もう辞めよう。もう忘れよう。そしてその情熱を全て仕事に向けた。私がキチガイのように仕事に打ち込む理由はそこにある。社畜、仕事バカ、金の亡者、仕事中毒、何と言われても構わん。もう嫌なのだ。大好きなものを自ら拒絶し諦めた時のあの虚無感は思い出したくもない。が、覚えている。今私は仕事で、あの時出来なかった「創る」ことにチャレンジし、そして少しづつユーザーに受け入れられてきている。メジャーデビューにはほど遠い。否、メジャーデビューなどしなくても良い。私は今、恥ずかしげもなく自身の理想を語り、その理想に近づけるべく実験やテスト運転を繰り返し、始めた当初は誰も見向きもしない、誰も立ち止まらないものを少しづつではあるがお金を頂戴し見て貰えるまでになった。あの頃、創ることから逃げて、ただ誰かから好かれることにだけ注力し、興味も無い事にいちいち反応して擦り寄るあの寄生にも似た嘘の人格、ちゃんと気付いていながら楽な道を選ぶ堕落した厭らしい感覚は最終的に何も生まなかった。諦めて苦しみながら手を開いて見てみるとそこには何も無かった。体制、小さくてもコミュニティに属すれば楽であるのは分かっている。嫌われなくて済む。しかしながらその楽な方に流れればまた私は「創る」ことを放棄し、自身の厭らしい気持ちを見つめながら寄生先を探して歩くことになる。日常から絶えず受ける痛みや嫌われることなど、諦めざるを得ない状況まで追い込まれてからの絶望に比べれば我慢できる。大好きであるがゆえに、私は痛みの大きい方を選んでいく。あんなものをもう一度喰らうくらいなら死んだ方がマシだ。